2010年2月16日火曜日

文化庁メディア芸術祭 Japan Media Arts Festival

国立新美術館でやっていたもの。
私が行った日は大変な盛況で、あのような類の展示の数々を体験できる環境では、とてもなかった。よくもわるくも祭りだった。

なので、観覧もそこそこにシンポジウムを聞きに行った。

テーマシンポジウム『メディアとは?芸術とは?』
出演:岡崎乾二郎 水越伸 森達也

以降、発言内容の忠実な再現をしているわけではないので、どなたの発言かについてはあえて言及せず、自分なりに捉えたままを書きます。

まず、メディアとメディウムという2つ言葉の定義づけがなされる。
メディウムというのはメディアの単数形。表現手段の一次媒体のことを差す(小説家にとっての原稿、彫刻家にとっての石、など)。
メディアは二次媒体。受け取り側が目にする時、手に取る時になしている形。
表現者は基本的に、二次媒体のありようを完全にコントロールすることはできない。
鑑賞者は逆に、一次媒体へのアクセスは遮断されている。

これに対して、1次媒体と2次媒体の境界線は近年消えつつあり、たとえばアルゴリズム的美しさに支えられたコンピューター上の表現などについては、それを書いた本人と受け取り手は基本的に同じものを同じような環境で受け取っているはずだとの異論が出る(これはコンピューターに詳しくなればなるほど「いや、同じ環境とはなかなかいかない」との意見が出そうですが)。

1次媒体をすっとばして2次媒体にだけアクセスすることにより、アートの概念を覆そうとしたデュシャンがいて。
1次媒体と2次媒体の区別などもはやない。オリジナルなど不要だ。もう世の中はコピーがコピーされて蔓延していくのでいいのだ、と極論を軽やかに楽しんだポストモダン的な振る舞いがあって。

今は、1次媒体と2次媒体の区別があいまいだという前提から出発するしかない。ならば、媒体そのものを異化する作業が必要なのではないか。しかし、表現は媒介なしには届かない。表現の中に、媒介への異化の眼差しを巧妙に紛れ込ませるしかない。

ところで、メディア芸術祭そのものへの言及もけっこうなされていた。

旭山動物園のように、そこらの美術館などよりもはるかに高度な「展示」技術を備えた施設があることなどを例に挙げながら、で、今回の祭って、どうよ?という。

ミュージアムという言葉には「美術館」と「博物館」と2つの意味がある。本来のミュージアムには、それが美術館に所蔵されるべきものか博物館に所蔵されるべきものかなどの問いは不要で、すべての展示されるべきものはそこに置かれた(それはたとえば王族のサロンだったかもしれないし、今言うミュージアムとは趣きを異にしているかもしれないが)。

ひるがえって、たとえば今回のメディア芸術祭の大賞を受賞した作品は、タマネギの成長過程の模型を生産しつづける機械、「growth modeling device」、という作品だったが、その機械の上にかけられるべき「タマネギがそこにない」。なぜなら生き物を持ち込むと他の展示に悪い影響をおよぼす可能性があるからだという(え、だってタマネギだよ?)。そんなお役所的な仕事がされているのなら、ここはやはり古い美術館なのですね。国立新美術館という名前ですが、などとやりこめていたパネラーの方たちだったのだが、古いミュージアムはじつはもっとも広範な使命を帯びたメディアだったのだと思う。

言葉は一人の人間が生み出したものではない。メディアは一人の人間が生み出すのではなく、コミュニケーションの過程で生成されるもの(twitterなどの新しいコミュニケーションツールについてはどうなの?という疑問も投げかけられつつ。でもtwitterも「生成」はともかく「醸成」は不特定多数のひとびとでなされる)。メディアそのものを異化する行為がメディアアートなのであって、ウェブ上に乗っかりやすいテクノロジーを利用して作品をつくっていれば「メディアアーティスト」だなどと思っている人はもはやアーティストでもなんでもない。などの厳しいご指摘も飛び交っていた。

文化庁メディア芸術祭 Japan Media Arts Festival

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